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天文14年(1545年)9月、広忠は美濃に侵攻した織田勢の敗報を聞くと、安祥城奪還のため出陣する(兵数不明)。

松平勢は安祥城に信秀が到着していないと思い込んだ上に、敗戦の後で敵の士気は低く、それに加えて地理の理解では自分達のほうが分があるとして完全に油断していた。対する織田勢(城兵600余人、援軍兵数不明)は、


当時最新兵器であった火縄銃を投入し、信秀の指揮する援軍も城に入れずに城外に巧妙に配置するなど万全の態勢で臨んだ(投入された火縄銃が少数だった事と松平勢の大多数が火縄銃そのものを知らなかったため、撹乱は成功しなかった)。第二次安城合戦

両軍は安祥城近辺の清縄手で激突した。

松平勢は織田勢に背後から攻撃されて始めて援軍の到着を知り、これを叩こうとするが、この隙を突いて城兵が打って出たために挟撃を受ける。

退路を断たれることを恐れた家臣たちは、致命的打撃を受ける前に退却する様に進言するが、広忠は聞き入れず突撃を敢行する。

しかし、信秀が在陣している事が松平勢中に知れ渡ったために兵は動揺し、軍勢は二つに分断され、退路を完全に断たれた。

本多忠豊

広忠は自己の安全も絶望視される中討死を決意するが、重臣の本多忠豊(本多忠勝の祖父)がそれを諌め、広忠の身代わりとなって敵本陣深く突撃した事で織田勢の注意を引く事に成功し、広忠や生き残った松平勢は岡崎城への退却に成功する。

しかし、身代わりとなった本多忠豊は討死する。

この敗戦によって松平氏の地位は完全に凋落し、今川氏への依存はますます強くなることになる。

天文16年(1547年)7月、広忠は松平信孝と矢作川の河原で戦い敗北する(この頃松平氏は、西三河の小大名であり続ける事も自力では困難になっていた)。

松平宗家は軍事力が著しく低下しており、強大化した国人の一人で岡崎を脅かす存在となっていた松平忠倫と武力で渡り合う事が困難だったため、広忠は家臣に命じてこれを謀殺する。

しかし忠倫は織田氏と友好関係にあり、友好者をむざと殺された信秀は激怒し三河に侵攻する。広忠はかねてより松平氏単独での岡崎城防衛を不可能であると考えており、この報を受けて今川氏に救援を求めた。

これに対し今川義元は、広忠の嫡男竹千代(後の徳川家康)を人質として差し出すよう要求してきた。広忠はこれを承諾し竹千代を駿府に送るが、途中で戸田康光に拉致されて織田氏に売られ、反対に織田氏の人質となってしまう、しかし広忠が今川氏に対する恭順の姿勢を明確にしたことによって、松平氏は完全に今川氏の傘下に組み込まれた。

信秀は竹千代を利用して広忠に今川から離反して織田の傘下に入ることを要求したが、広忠にこれを拒否されたため、

WTFM 道_e0040579_13241348.gif翌17年(1548年)3月に織田勢は再度三河に侵攻、今川氏は松平氏を救援のため軍を送る(第二次小豆坂の戦い)。この戦闘で織田氏は、敗北し、安祥城まで敗走する。

翌月、山崎城の松平信孝は自力で岡崎城を落とす為出陣するが、野戦に負け敗走する松平勢(宗家方)を深追いしすぎたため、矢に当たり討死する。

広忠は腹中の癌が取り除かれ、分裂した一族を再結集させようとするが、翌天文18年(1549年)3月、岡崎城内にて家臣に討たれ死去する。

この報を受けた義元の動きは素早く、松平領乗っ取りを完成させるため、同月太原雪斎を将とする2万余の軍勢(松平勢を含む)を三河へ出陣させた。

雪斎は軍勢の一部を岡崎城に入れた上で尾張からの援路を遮断するため、鳴海・大高方面にも軍を派遣、その上で山崎城などの出城を占領し、安祥城(兵数不明)を孤立させた後、松平勢が先鋒となり城の北側より攻撃を仕掛けた。

松平勢の奮戦によって、三の丸、二の丸を次々に落とし本丸に迫ったが、城将織田信広を捕縛しようと焦る余り、

松平勢の主将本多忠高(本多忠勝の父)が深入りしすぎ討死してしまう。このため松平勢が動揺し、雪斎は攻撃継続を不可能と判断、全軍を岡崎まで撤退させる。

同年10月、雪斎は再度出陣する。この時雪斎は、前例の無い城の南方からの攻撃を松平勢に命令する。

前述した様に安祥城周辺は荒地で、特に南側は攻撃が困難であり、織田勢も防衛を怠っていた。織田氏はこれを補うため、平手政秀を将とする援軍(兵数不明)を派遣し頑強に抵抗するものの、今川勢の猛攻により信広が捕縛され、安祥城は落城する。このとき今川勢は火縄銃を効果的に利用したとされる。

信広が捕縛されて今川氏の人質となったため、織田氏の人質となっていた竹千代と信広とが交換され、竹千代は岡崎城に帰城するが、義元はそれを良しとせず、すぐに駿府へ人質として送らせた。これより義元は、西三河乗っ取りの仕上げに取り掛かる。

まず安祥城に遅れて岡崎城に今川の家臣を城代として派遣し、敵対的な土豪は駿府に住まわせたり人質をとることで動きを封じ、友好的な土豪に対してはその家の家督を継がせたり領地を与えることで懐柔し、西三河を自己の勢力圏に取り込んでいった。

最終的に刈谷城周辺を領有する水野氏を恭順させることは失敗したが、信秀の死後、家督を継いだ信長を見限った鳴海城主山口教継を城ごと寝返らせることに成功し、その上教継が調略を用いて周辺の大高城や沓掛城を攻略したため、今度は逆に尾張に今川氏の勢力が入り込むことになった。

この事によって軍事バランスは完全に今川氏に傾き、織田氏は苦境に立たされるが、信長は鳴海城、大高城の近辺に鷲津・丸根・善照寺砦など多数の砦を築城したため、今川の勢力は封じ込まれ、再び劣勢となる。

これを救援する為に発生した戦役が桶狭間の戦いであるとも言われている。
by cwj36 | 2011-06-17 18:02 | 資源回收


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