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石山合戦

(施工中)
天下統一 延遲10年
顯如抗織




顯如

石山合戦_e0040579_452382.jpg本願寺第十一世顯如為戰國時代之中實力最雄厚的宗教人士,可以發動各地為數眾多的「一向一揆」;開創了本願寺最輝煌的一段時期。這個宗派是日本戰國時有勢力強大的教團組織,總部在大坂石山本願寺。

舉著「進者 往生極樂;退者 無間地獄!」旗幟,口唸「南無阿彌陀佛」戰死殉道搞的織田信長上杉謙信焦頭爛額的一向宗起義(或暴動)。

當初在比叡山的親鸞上人受到中國淨土宗及日本淨土宗師法然的影響,獨創出一派淨土真宗,以阿彌陀佛崇拜為教義核心,主張「他力本願」及「惡人正機」。

「他力本願」就是說人無法依賴自身修持達到涅磐的永世超脫,需要有他力的協助,而他力便是南無阿彌陀佛,只有南無阿彌陀佛的提攜,才能能獲得解脫,任何修行方法皆不足取。「惡人正機」即是說南無阿彌陀佛要拯救和引渡的都是罪孽深重之人。

這兩項教義中「他力本願」使淨土真宗的修行方法簡略到只需要因唸生義口唸「南無阿彌陀佛」之法名,「惡人正機」更是深入下層民眾,得到農民、低階武士乃至海盜、山賊的信奉。

一向宗的教義與經營方式得到許多其他佛教體系及大名的排斥,加上進入亂世,農民越發不滿大名的壓迫,反過來利用了一向宗的組織發動起義,

並於長享二年(1488)以十萬到二十萬的兵力包圍了加賀守護富樫政親的高尾城,並於6月9日將其攻破,政親自害。

至此,加賀一國完全成為“無主之國”,由有力的國人代表與中小地主身份的寺院住持聯合執政。《總見記》中這樣描述農民當時的欣喜心情:「武家作地頭事情難辦,一向住持當領主可隨心所欲度日。」

打倒了加賀守護富樫氏, 將加賀變成由本願寺教團控制的門徒領國,自此之後這樣高舉一向宗旗幟的農民起義便被統稱做"一向一揆"。

天文元年時京都日蓮宗徒與南近江六角定賴聯軍搗毀一向宗的本據山科本願寺,於是顯如之父証如便將本據遷移至大坂石山,石山本願寺因而升格成一向宗新的總本山。

而本願寺的住持對其信徒有很大影響力,他本身還有取妻生子,而本願寺對於信徒的教導是:「信徒必須聽從主持的話,若信徒和所謂的「佛敵」作戰,如果不幸戰死,可以立刻往生西方極樂世界」(有如十字軍或回教聖戰)。

而當時是戰國時代,許多大名對於侵略他國莫不全力以赴,於是就有的大名以金錢收買本願寺,請其鼓動某地信徒以使其叛亂,俾其在進攻時可以得到方便。

織田信長的勒索

信長以将軍家名目で教行寺など畿内の本願寺系末寺に矢銭を要求し、不給的話就攻撃。本願寺には「京都御所再建費用」的名目で矢銭5000貫を請求し、顕如はこれを支払った。

信長は本願寺の寺内町という、特権を得ている独立宗教都市の解体を目指し、その後もいろいろと圧力をかけていたようです。

「身命を捨てて法灯を守れ!」一方、本願寺11世法主顕如は9月になると三好三人衆、および、浅井・朝倉氏と手を結ぶと共に各地の一向宗門徒に檄を飛ばし信長に宣戦布告する。

陸戰篇

第一次石山合戰-1570年淀川堤戰役

元亀元年(1570年)9月12日に顕如は「信長が本願寺を破却すると言ってきた」として本願寺門徒に檄を飛ばし、三好氏攻略のために摂津福島に陣を敷いていた織田軍を突如攻撃した。そのまま本願寺軍は石山を出て、14日に淀川堤で信長軍と直接激突した。

元亀2年(1571)一向一揆衆が立て籠もる近江の志村城を信長に落とされ、ついで近江における一向一揆衆の拠点である金ヶ森城も落とされるが、翌元亀3年(1572)には、顕如と姻戚関係(信玄と顕如の妻は姉妹)にある甲斐の武田信玄も反信長戦線に加え、反信長包囲網の拡大を図る。

1571年9月12日織田信長燒了比壑山延曆寺後,從寺裏逃出來的善男信女,大小和尚,全部殺光!因此織田信長被佛教一向宗宗主石山本願寺顯如痛駡為禽獸不如的“佛敵”。

第二次石山合戰-1575年高屋城戰役

天正2年(1574)の伊勢長島に続き、翌天正3年には越前の一向一揆衆を壊滅させられ信長包囲網が弱体化すると、顕如は信長に対し屈辱的な講和を申し入れ

第一次信長包囲網は崩壊し危機感を覚えた石山本願寺は名物の「白天目」(はくてんもく)茶碗を進呈し第1次講和を結ぶことになる。

天正2年(1574年)2月27日に、織田信長は多聞山城に入城し正倉院の蘭奢待を切り取り香を焚いた。『信長の天下布武への道』によると「それを聞いた義昭が憤慨して、決起を促したのかもしれない」と解説しており、

同年4月2日、顕如は32歳。越前一向一揆や長島一向一揆とも雲行きが怪しく、織田信長との講和を破棄し出軍する。毛利氏の庇護にある足利義昭と与して、再度反旗を翻す

天正3年(1575年)4月8日から同月21日まで高屋城、新堀城、石山本願寺一帯で行われた戦い。もう一つの主戦場でもあった新堀城を併せて「高屋・新堀城の戦い」とも言われている。

織田信長はこの報を京でうけ討伐軍を編成する。大将に、この時期大和国にいた柴田勝家、筒井順慶らに加え明智光秀、細川藤孝、荒木村重といった面々を揃えた。

同年4月12日下八尾、住吉、天王寺に着陣し石山本願寺と高屋城の両面を攻めた。石山本願寺方面では住吉や天王寺を焼き討ちにし、石山本願寺から出軍してきた部隊と玉造辺りで合戦となったが詳しいことは解っていない。

一方高屋城方面では、遊佐信教を討ち取ることになったが、両面とも決定的な戦いに至らず、同月28日抑えとして荒木村重と高山右近を残し撤兵した。

次いで織田信長軍は佐久間信盛、細川藤孝、筒井順慶、明智光秀、塙直政、森長可らが若江城に入城し、同年9月18日に飯盛山城や山城下で、三好康長、顕如連合軍と激しい戦闘になり、飯盛山城を落城させ萱振城も落城し、高屋城下を放火した。

長島一向一揆もその9月頃にはようやく終結し伊勢国を平定しするとこの時の兵力は『信長公記』によると10万兵であった。同月16日には遠里小野に移動し織田信長自身も作毛を刈り取り、新堀城周辺に陣を張った。在16日轉往遠里小野攻擊位於高屋城和石山本願寺中間的屬於三好方新堀城

新堀城とは、十河一行や香西長信が立て篭もっており、高屋城と石山本願寺との中間にある城で両城を支援していた。

翌17日この城を取り巻くと、同月19日まずは堀に草などを入れ埋め立て、夜になって火矢を射かけ大手、搦手の双方より突撃した。

これにより十河一行を含む170余の首級あげ、香西長信は生け捕りにされたが織田信長は首を刎ねた。

在織田軍攻下新堀城後,進而包圍三好康長的居城高屋城,新堀城が落城すると三好康長は織田信長の側近であった松井友閑を仲介にし降伏を申し出た。織田信長は三好康長を赦免し、高屋城の戦いは終結する。

第三次石山合戰-1576年5月~7月戰役

荒木村重軍、石山本願寺の支城として大和田に砦

尼崎城、大和田城、吹田城、高槻城、茨木城、多田城、能勢城、三田城、花隈城、有岡城ら大坂の周辺に10ヵ所の付け城を築き、住吉方面の沿岸にも砦を設け海上を警固した。

本願寺もこれに対抗し更に防備を固め、本願寺周辺に支城を51ヵ所設けたと言われている。長期籠城の体制

第四次石山合戰-1576年9月天王寺戰役

石山合戦開戦當初屬於織田信長軍的雑賀・根来連合軍,鈴木孫一屬於石山本願寺浄土真宗門徒、而雑賀三組(三緘)、根来眾雖屬真言宗畢竟也是佛教徒,因此戦国鉄砲傭兵隊雑賀衆、根来衆不計前嫌全都倒向石山本願寺對抗“第六天魔王”織田信長

「戦国鉄砲 傭兵隊』在石山本願寺参戦後、馬上進入石山本願寺,本格化籠城戦,尤其雑賀衆終於在「大坂の左右の大将」鈴木孫一率領下共同行動,成為織田信長的強勁敵人。

天正4年(1576年)4月、明智光秀、荒木村重、細川藤孝等對石山本願寺展開攻勢(石山合戦),5月3日由原田直政(塙直政)為主力對三津寺攻略,原田直政遭到雑賀衆鈴木重秀伏兵襲擊,亂戰之中討死。



明智光秀7000人逃回天王寺砦。對本願寺方面來說、織田軍の本願寺攻撃前線基地就是天王寺砦、而織田對本願寺軍海上通路要衝就是木津砦。

天王寺砦、木津砦都是雙方要爭奪的重要據點,因此之故,本願寺顕如趁勝勢15000人包圍天王寺砦。此役稱之為「天王寺砦の戦い」。

陷入絕境的明智光秀向停滯於京都的主公信長請求援軍。此危機原因為原田直政的惨敗,織田信長非常惱火下令一方面將原田直政的塙一族與郎党全捕縛起來、所領地没収、厳禁寄宿等峻烈措置。一方面發出畿内諸大名的動員令。

但是這是突然的命令,一向就喜以多欺少的織田信長竟只招集到若江城丹羽長秀・滝川一益・羽柴秀吉・稲葉一鉄・安藤守就諸将兵力3000人。

5月7日早晨,織田信長展開突擊,本願寺軍疏忽大意沒有察覺到信長本隊3000的兵力。這是織田信長在弘治2年(1556年)稲生合戰、永禄3年(1560年)的桶狭間合戰後,第3次以少數兵力親征之舉。

本願寺軍除了雑賀・根来連合軍雑賀外都是百姓兵且指揮官是戦鬥経験不足的坊主,是軍隊組織力差的軍団,織田信長很快突破最後方本願寺軍本陣松虫塚陣所。

本願寺軍逐漸被織田軍壓倒....就快遭到明智光秀織田信長夾擊而全滅。

在此危急存亡之際,信長在亂戰中被雑賀衆鈴木孫一發現,鈴木孫一毫不猶豫向織田信長打了一炮,銃弾射穿織田信長右大腿、引起織田軍的一陣騷動,本願寺軍趁機逃回石山本願寺。本願寺損失2700人。

佐久間信盛後任として対本願寺戦の指揮官に就任、畿内7ヶ国の与力をつけられた信盛配下の軍団は、当時の織田家家中で最大規模軍團。

佐久間信盛以本願寺鉄砲多,力攻是困難的。也沒有像在中國進攻的羽柴秀吉一樣地向信長要求對策,整整4年採取無為的消極攻擊。

海戰篇

第一次木津川口海戰

1576年7月13日

天王寺合戦の後、砦の数を増やして本願寺を包囲する信長・・・

村上水軍の指揮をとるのは、父・村上武吉(たけよし)の名代として参戦した若干24歳の司令官・村上元吉(もとよし)・・・。



まずは、板などで高い壁を造り、その影にかくれるように射手をしのばせた盲船(めくらぶね)が、一斉に矢を放ちます。

次ぎに、2番手に控える焙烙(ほうろく)船が、敵船に焙烙を投げ込みますが投炮碌、そこには、当然火の手があがり、船上は大混乱・・・突然の火災に慌てた兵士が次々に海へと飛び込みはじめたら、

3番手の武者船、敵船に舳先をぶつけながら真横につけ、次から次へと刀を持った兵士が敵船へと乗り込み、船上の敵兵に斬りかかります。

また、これらの攻撃に動じない強い船には、ノミを持った兵士が水中にもぐって敵船の下まで行って船底に穴を開ける鑿入り(のみいり)というゲリラ攻撃も同時進行させました。

この陸戦に勝るとも劣らない見事な陣形の連携プレーによって、『信長公記』にも「歴々数輩討死候(そうろう)、西国船勝利」とあるように、信長勢は大混乱となり、一方的な戦いとなってしまいました。

もちろん、兵糧は石山本願寺に搬入され、本願寺側の士気も最高潮!

第二次木津川口海戰

石山合戦_e0040579_2149284.jpg1576年の第一次木津川口の戦いで毛利水軍・村上水軍の使用する焙烙火矢の前に大敗したため、

為了有效反制村上水軍,織田信長採用雙管齊下的方法,一方面離間已有心結的來島村上家(後來的来島通総)與能島村上(村上武吉)家。

另一方面集中近江國友村的鐵匠跟伊勢熊野的船匠,由九鬼嘉隆與瀧川一益領導開發新武器鐵甲船。

九鬼嘉隆從紀州熊野地方調來適宜用來建造船隻的上等木材,回到伊勢居城建立起造船基地,設計製造鐵船。嘉隆吸取舊式的軍船、明船以及歐洲船隻的優點,設計製造了一種全新的軍船。

這種軍船寬七間(約12m),全長十二間(約22m),相對於當時其他的軍船來說,是空前具有強大防御力龐然大物了。

巨大的船體是用最好的木材構築而成,最外層覆蓋鐵板用於加固和阻燃。這就是戰國時期著名的“鐵甲船”。船上還配備了火器,每艘船上都裝備了三門當時很稀少的大砲三門。

九鬼嘉隆建造了鐵甲船六艘,從鳥羽城大湊出發,繞過紀州沖,駛向大阪灣的海上封鎖線。途中26日在淡輪沖曾經受到了雜賀谷門徒眾船團的襲擊,鐵甲船輕鬆擊退了敵人。7月17日,到達了堺港。



9月27日,九鬼艦隊接受信長檢閱。信長對新軍船非常滿意,褒獎有加,賜給嘉隆黃金20枚,以及9名扶持。

天正6年(1578)11月6日九鬼嘉隆指揮織田水軍,再度往大坂湾的木津川口對付毛利水軍,披上鐵甲的織田戰船使以往百戰百勝的燒毛利夷戰術失去效用,同時船上負載的大砲與長洋槍也發揮威力痛擊毛利水軍

毛利水軍・村上水軍600艘惨敗。



但實際上毛利水軍主力能島・因島村上水軍沒趕上交戰,是乃美(小早川水軍)・児玉(川内警固衆)水軍為搶功而大敗。

所以最近的研究第二次木津川口海戰毛利大敗的說法被認為是個疑問。這個戰鬥的結果,大坂灣的制海權成為織田方控制,不過,毛利水師依然掌握著淡路島西部的制海權,翌年毛利水軍還能發動支援籠城中的三木城兵糧搬入大作戰。

淡路島以西海權到1582年3月由羽柴秀吉勧誘村上通総才向織田方「寝返」。村上通総改名来島通総(1597年戰死於鳴梁海戦)

但無論毛利是否大敗,毛利往石山本願寺運輸兵糧與武器彈藥作業停滯,石山本願寺士氣低落。此海戰後2年後,顕如終於不支,向織田信長降伏。

天正8年(1580)8月2日講和降服

天正5年(1577年)2月2日織田信長決心進攻掃蕩紀伊雜賀雑賀荘・十ヶ郷大本營,鈴木孫一被誘回家鄉作戰。

天正6年10月,本來是摂津石山本願寺討伐軍的荒木村重離反,爆發有岡城戰役,信長の対石山本願寺戦略に重大な狂いを見せた。

これを機に信長は朝廷を動かして和解をする事を試みる。朝廷は信長の希望を受け入れて勅使を送ったものの、本願寺は毛利氏の賛同が無いと応じられないとしてこれを事実上拒否したため交渉は決裂した。

これを受けて信長は毛利氏とも講和する事を決め、毛利氏への勅使が派遣される事になった。

加上1578第二次木津川口の戦い毛利戰敗。雜賀眾鈴木孫一投降織田,雜賀土橋眾反對,雜賀陷入內戰。

石山本願寺損失雜賀、毛利兩大重大依靠。本願寺陷入被完全包囲的孤立狀態。

天正8年(1580年)3月1日、朝廷は本願寺へ勧修寺晴豊庭田重保為を勅使として遣わして年寄衆の意向を質し、本願寺は和議を推し進めることで合意した。

顯如只好透過朝廷調停,信長と本願寺は三度目の講和を接受信長提出的「撤離石山本願寺」和談條件。

4月9日、顕如は石山本願寺を嫡子で新門跡の教如に渡し、紀伊鷺森別院に退去した。

教如再抗

7月2日、顕如は三人の使者を遣わして信長に御礼を行い、信長もそれに合わせて顕如に御礼を行った。これと前後して荒木村重が花隈城の戦いに破れ去るなどの情勢悪化や近衛前久の再度の説得工作によって石山の受け渡しを教如派も受け入れて雑賀に退去し、8月2日に石山は信長のものとなった。

が、引き渡し直後に石山本願寺は出火し、三日三晩燃え続けた火は石山本願寺を完全に焼き尽くした。『信長公記』では松明の火が風で燃え移ったとされている。

『多門院日記』には、「退去を快しとしなかった教如方が火を付けた」と噂された、とある。

11年本願寺抗織結束。

8月,信長秋後算帳以十九條罪狀,把圍攻四年徒勞無功的佐久間信盛及信榮父子兩人流放到高野山。

信盛失脚後,衝擊影響到織田家臣團的每一個人,特別是神經敏感的明智光秀,懷著時時刻刻「伴君如伴虎」的恐懼感,在暴君信長旁邊一不小心重則人頭不保,輕者流放,開始產生謀反的念頭。

本願寺の分裂

顕如の和平は、信長への敗北には違いなかったが、前途を見通しての余裕の降伏でもあった。叡山のような壊滅的打撃も受けず、諸国の門徒の支援も揺るぎ無かったので、再挙は充分に可能であった。

ところが難問が足元から持ち上がった。長男の教如が石山本願寺から退去しなかったばかりか、諸国方々の門徒の熱狂的な支持を頼みに、籠城をはかり、諸方に兵を募って徹底抗戦の挙に出たのである。

数代に渡って続いてきた聖人の居所を、信長の馬蹄で汚されるなど耐え難い、というのがその理由であった。

紀伊の鷺森に移っていた顕如が説得して翻意を奨めても効果がなかった。ここに至って顕如は教如を勘当して教如の弟の准如を嫡子と定めた。

無論信長の目を憚ってのことである。恭順の意を示すことが危機回避の最良の方途と考えての行動であろう。

 しかし、これは後の東と西の両本願寺分立のきっかけを作ることとなった。

在天正十年(1582)本能寺之變後,顯如與掌握畿內實權的羽柴秀吉相善,後於天正十三年在秀吉重建石山本願寺寺內町時移居攝津天滿,同年8月在當地建立阿彌陀堂,翌年8月十間四面御影堂落成,加上秀吉贈送京都七條堀川的土地作為寺地,建成現今的京都本願寺。

文祿元年年11月24日,本願寺顯如因中風圓寂,享年50歲,後以三子准如繼為法主,

慶長7年德川家康讓在關原戰中支持東軍的教如另興東本願寺,在常陸妙安寺建立御堂,改稱大谷派,與准如帶領的西本願寺一分為二,一直延續至今。

進者 往生極樂;
退者 無間地獄!

現在日本政教分離,一向宗已不打這旗號而且大力宣揚和平反戰。

明治5年( 1872年)4月25日,新政府乙太政官佈告,許可僧侶帶妻食肉和蓄髮,同時又命僧侶於法名上加姓,於是某些寺院的僧侶便公開娶妻食肉。

「本願寺」其實不是姓氏、這些佛教傳教講師或和尚本來就沒姓氏,直到明治政府規定(除皇室外)每個人都要有姓氏,本願寺這才使用大谷家號,大谷是(親鸞女兒)覺信尼長子覺惠的子孫家號。

西本願寺廿二世大谷光瑞(鏡如上人)還曾任職中華民國政府高級顧問,1914年,因為教團的巨額債務問題而被迫辭職,此後隱居大連。

在太平洋戰爭中,他出任近衛文麿內閣參議。戰後患上膀胱癌,住院時被俄軍逮捕,直到1947年才被允許回國,次年病逝於別府。
by cwj36 | 2010-10-26 18:28 | 【Total War 織田 】


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