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1567 美濃攻略

(施工中)

13歲繼位
沉迷酒色 齋藤龍興的敗逃



永禄4年(1561年),齋藤義龍受朝廷官職任左京大夫,正當齋藤義龍繼續對付織田信長之際,同年5月11日突然急死。享年35。

之後其子齋藤龍興繼位

斎藤龍興

(1561年)、父・義龍の死により13歳で家督を継ぐ。しかし信長に機先を制され、長政は信長と同盟を結び、逆に浅井長政までもが美濃に侵攻するようになる。

このときは義龍の時代から同盟を結んでいた六角義賢が浅井領に侵攻したため、長政は美濃攻めを中止して撤退している。

1561 森部の戦い

5月14日
斎藤義龍急死の報を受け、ただちに出陣、美濃勢を打ち破り墨俣を奪う。

十四条の戦い

永禄年(1561)5月23日

十四条に斎藤軍が陣を張ったためこれに応戦、池田、佐々らの活躍で敵は退却する。

小口城攻撃

だが信清の支城は信長軍によって次々と落城し、永禄7年(1564年)5月には居城の犬山城も陥落。

信長は犬山城の制圧に向かうことになり、先ずは1562年6月、犬山城の支城である小口城に攻めかかったが、苦戦して退却することとなり、犬山城。

龍興は信長の侵攻に対処するため、父・義龍の進攻対象であった北近江の浅井長政と同盟を結ぼうとした。

新加納の戦い

永禄6年(1563年)、再度侵攻した織田信長と新加納で戦い、家臣の竹中重治の活躍もあって織田軍を破った(新加納の戦い)。斎藤勢3500は重治の伏兵戦術で織田勢を破ったとされている。

竹中重治兵諫

主君・龍興は酒色に溺れて政務を顧みようとせず

一部の側近だけを寵愛して重治や西美濃三人衆を政務から遠ざけていた。このため永禄7年(1564年)2月、弟・重矩や舅・安藤守就とともに龍興の居城・稲葉山城(後の岐阜城)を16人(『竹中雑記』、17人という説も)の部下とともにわずか1日で奪取した。

織田信長は重治の稲葉山城奪取を知ると、城を譲り渡すように要求したが、重治は拒絶し、8月には自ら稲葉山城を龍興に返還した。

その後は斎藤家を去り、北近江の戦国大名・浅井長政の客分として東浅井郡草野に3000貫の禄を賜るが、約1年で禄を辞して旧領の岩手へと帰り、隠棲した。

しかし永禄7年(1564年)、斎藤飛騨守に私怨があった竹中重治と、その舅であり西美濃三人衆の1人・安藤守就によって居城の稲葉山城を占拠され、龍興は鵜飼山城、さらに祐向山城に逃走した。

後に重治と守就は龍興に稲葉山城を返還したため、龍興は美濃の領主として復帰したものの、この事件により、斎藤氏の衰退が表面化する。

織田信長の小牧山城築城(永禄5年~)により圧力がかかった東美濃においては(遠山氏が織田氏の縁戚となるなど、そもそも織田氏の影響力が強い地域であったが)、有力領主である市橋氏、丸毛氏、高木氏などが織田氏に通じるようになる。

永禄8年(1563年)には、織田家に降った加治田城主佐藤忠能により、堂洞城主の岸信周が討たれた。この時、関城主であり、国内の押さえとなっていた大叔父の長井道利も織田家の武将となっていた斎藤長龍に破れ、中濃地方も信長の勢力圏に入った。

1562 犬山城攻略

犬山城尾張再度統一このころまでに小牧山に移っていた信長は、美濃攻略に障害となる犬山城の早期攻略を図っていた。同時期に美濃で発生していたクーデターの間隙をつき、犬山城を攻撃し攻略する。ここに尾張統一が完成。

だが信清の支城は信長軍によって次々と落城し、永禄7年(1564年)5月には居城の犬山城も陥落。

遂に信清は逃亡した。甲斐へと逃げ込み武田氏の元で犬山鉄斎と称した。


永禄10年(1567)滝川一益率いる織田軍による北伊勢攻略戦。楠城を落とし高岡城に幾度となく攻め寄せたが、城は落ちなかった。武田氏が美濃に侵入するという風聞により退却する。

宇留摩、猿喰城之戰

1565年(永祿8年)7月,織田信長發兵東美濃,襲擊和小牧山城僅有一河之隔的宇留摩城(又稱鵜沼城)和猿喰城,在兩城約十至十五町外的伊木山上建城,壓迫兩城。

而在織田家臣羽柴秀吉的遊說下,有著「鵜沼之虎」勇名的宇留摩城主大澤次郎左衛門投降織田家,猿喰城因建在木曾川沿岸的高山上,地勢易守難攻,織田家臣丹羽長秀銜命攻城,反過來利用城池地利切斷城內用水,使城主多治見修理力盡開城。

位於猿喰城北邊三里的加治田城主佐藤忠能父子旋即在當年八月接受羽柴秀吉的勸說投降織田家,米田城主肥田忠政亦同時投降織田信長。

堂洞城之戰

9月,在織田軍連續拿下三座城池後,齋藤龍興也力圖反攻,派遣岸勘解由左衛門駐紮於堂洞城和敗出猿喰城的多治見修理會合,並指示長井道利揮軍攻打加治田城。

織田信長搶先率領援軍迎擊齋藤家的軍隊,在28日強先攻擊堂洞城,用松明投向城中,火燒二丸。並在黃昏之際,河尻秀隆順利突入本丸,丹羽長秀的部隊隨之發動突襲,在入夜後把城池攻下。

關城之戰

29日,聽聞堂洞城失陷的齋藤龍興領軍出動,和長井道利在關城合流,人數達到3000,全力突襲正在進行首級檢視的織田信長。

同時,織田信長由於讓手下各自帶領兵馬分散固守新佔的美濃城池,人數僅餘7、800,因此面對人數佔優的齋藤軍,織田信長選擇全力突圍,認敗後撤。但隨後在投降織田家的龍興叔父齋藤長龍奮戰下,織田軍又緊接著攻陷了關城。

河野島之戰

1566年(永祿9年)4月,足利義昭出面調停織田信長齋藤龍興和睦,但織田信長很快便打破和議,於8月出兵美濃國各務野,兩造在木曾川附近形成一進一退的僵持局面,最後因大雨導致河水暴漲,織田軍慘被沒頂,齋藤軍趁機攻打獲得勝利。

但松倉城的坪內利定卻叛出了齋藤家,投向織田信長。

稻葉山城之戰
西美濃三人衆叛變


永禄10年(1567年)、西美濃三人衆の稲葉良通や氏家直元、安藤守就らが信長に内応した為、遂に稲葉山城を信長によって落とされ(稲葉山城の戦い)、城下の長良川を船で下り、伊勢長島へと逃亡することになる。

当時19歳。以降、再び大名として美濃に返り咲くことはなかった。

齋藤龍興前往伊勢的長島城,之後又附庸於三好三人眾參加本圀寺之變,投入反對織田信長的陣營,最後又與朝倉義景聯合,1573年戰死於越前刀禰坂。
by cwj36 | 2010-10-19 11:35 | 【Total War 織田 】


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