2010年 05月 31日
石見銀山爭奪戰
(施工中)
根據《石見銀山舊記》一書所載,早在1309年(延慶2年)時周防國大名大內弘幸往訪石見國時,在參拜北斗妙見大菩薩之際便有採銀的紀錄,後來臣從於大內義興的出雲國田儀村銅山主人三島清右衛門幫助大內家在1526年(大永6年)3月開掘出地下的銀礦脈,其子大內義隆繼位後在1533年(天文2年)透過博多的商人神谷壽貞招徠工匠,以從海外學習的精錬技術灰吹法大幅提升銀的產量。
天文6年(1537)、出雲の尼子経久が石見に侵攻、銀山を奪った。2年後に大内氏が奪還したものの、その2年後に尼子氏が石見小笠原氏を使って再び銀山を占領、大内氏と尼子氏による争奪戦が続いた。
大内義隆の死後は、毛利元就が尼子氏との間で銀山争奪戦を繰り広げ、
嚴島合戰後,雖然毛利氏控制了大內氏大部份在中國地方的舊領土,但是毛利氏失去石見銀山旁的山吹城控制權。
山吹城,是當初大內義興為了守護銀山,而在能夠俯瞰銀山的山吹山山頂所興建的山城。而這時山吹城的守將,是大內氏的刺賀長信。
弘治2年(1556年)3月元就命令元春招降刺賀長信,不費吹灰之力的得到石見銀山,為毛利家增加可觀的財政收入,也使以後的戰事變得更加有利。
忍原崩れ
崩れ(平仮名:くずれku-zu-re)一詞在日文中解作某勢力在合戰中極度戰敗
為了奪回石見銀山の攻略,尼子晴久は備前遠征中でありながら素早く撤兵,派兵25000前往忍原、後に自らも出陣したのである。晴久命令本城常光,將山吹城團團包圍,並且嚴禁周邊的商人向城裡提供米鹽。面臨斷糧危機,刺賀長信趕緊向元春求援。
毛利家兵分2路:一由宍戸隆家率領7000人出陣,前往忍原阻止尼子晴久進軍,二由毛利元就・吉川元春往石見銀山別路出陣救援山吹城刺賀長信。
尼子晴久軍在忍原遭遇宍戸軍,忍原激戦地「一の渡」「二の渡」是山間的河谷狭隘得地形,兵力佔劣勢的宍戸軍認為是防守谷口的好陣地。
尤其可阻隔亀谷城與尼子軍聯絡的理想場所。
沒想到尼子軍爬上兩側急峻的山頂從上丟落石,宍戸軍両側反而遭到挟撃。宍戸軍遇到此意想不到的攻擊、又怕遭到亀谷城城兵出城斷後路。
宍戸隆家統制失效,部隊死數百人後敗走。
成功打敗宍戸軍的尼子晴久又急行軍趕去山吹城與毛利元就・吉川元春對峙。
孤立無援被斷糧圍困的山吹城城主刺賀長信,最後向晴久提議,願意以犧牲自己生命的方式來換取城兵們的安全,刺賀長信自殺後,山吹城就這樣落入尼子氏之手。成功奪取銀山的晴久,在任命本城常光為山吹城主後,凱旋回到月山富田城了。
尼子氏はこの石見銀山を手中に収めることを確実にする為に、在地豪族の温泉英永と尼子直臣である多胡辰敬・牛尾久清との連絡網を構築する。
降露坂の戦い
この時、石見銀山は尼子氏の直接統治という形ではなく石見小笠原氏の小笠原長雄との共同統治という形を取り、小笠原氏に警備させる方針取っていた。
永禄元年(1558年)、これに目をつけた毛利元就は防長経略の終了後,大内義長自殺。
に再び石見銀山を奪取すべく、吉川元春・小早川隆景を引き連れて小笠原長雄の居城である温湯城へと侵攻した。
小笠原長雄は即座に尼子晴久へ救援を要請する為に、雲石国境にある刺賀岩山城城代の多胡辰敬へと連絡し、これを受けた多胡辰敬は晴久へと救援要請を出した。
晴久は二万五千騎余りを率いて自ら陣頭に立って出陣したものの豪雨の影響により江の川が増水していた為、対岸にある温湯城へ向かうことは適わず、川を挟んで両軍は睨み合った状態へと入った。
この間、小早川隆景の説得や晴久が毛利軍と睨み合ったまま全く動こうとしなかったことに不信感を募らせた小笠原長雄は、永禄2年(1559年)8月に降伏を受け入れ開城した。
晴久は長雄の降伏を知ると、直接的な戦闘をすることもなくそのまま石見大田(現島根県大田市)まで引き返し、一度撤退して軍備を整えることにした。
これにより元就は率領一萬四千餘毛利軍、石見銀山周囲に展開する尼子方の城を攻撃し始めるものの、山吹城城代の本城常光を中心とした城砦群を落城させることが出来なかった。
本城常光はじめ尼子晴久に仕えたが、晴久が1540年の毛利元就の吉田郡山城攻めで大敗を喫すると、大内義隆に服属する。そして義隆が1543年に出雲国に侵攻して大敗を喫すると、再び尼子晴久の家臣となった。
由於補給線太長的遠征影響,元就覺悟山吹城不容易落城,開始拔營往降露坂至温泉津方面撤退。
同時、觀察到毛利軍企圖撤退中的本城常光馬上率領山吹城守備兵與其他支城守備兵合力追撃毛利軍。
毛利軍正從降露坂下坡、突然被本城常光攻撃大吃一驚,被殺了大敗,更倒楣的是遇到尼子晴久的本隊與本城常光合流,毛利元就軍呈現混亂狀態狼狽不堪的敗退。
本城常光の巧みな軍略により毛利軍を撤退させることに成功し尼子側は、10月には大田より出雲へと晴久が帰還した。これにより石見銀山防衛という戦略面での勝利を収めた。
一方、石見銀山攻略に失敗した元就はこの戦いにより本城常光の実力を認め、
永禄3年(1561年)12月に尼子晴久突然急死し,晴久嫡男の義久が家督を継承すると尼子家臣団にも動揺が走った。
本城常光投敵被殺
後に晴久の急死後に尼子氏当主となった尼子義久と雲芸和議を結んだ後に山吹城の本城常光を籠絡。不看好尼子氏前途的本城常光,於永祿五年(1562)六月,山吹城本城常光被毛利元就籠絡成功而見風轉舵投向元就。石見銀山,就這樣的再度回到元就的手中。
雲芸和議で一方的に晴久嫡男義久が毛利氏と和睦。これにより反毛利側として乱を起こした福屋氏を支援していた常光を含む石見尼子方の武将は動揺し、ついには居城である山吹城を毛利軍に包囲され、毛利側に降伏した。
後、毛利元就はその武勇と性格への猜疑から1562年、常光を誅殺した(石見銀の供出を渋ったのも原因とされる)。この事件により、毛利側に寝返っていた尼子側国人の大半が再び尼子側へと寝返り、
山吹城には吉川元春の家臣・森脇市郎左衛門が置かれた
by cwj36
| 2010-05-31 17:32
| 【Total War 毛利 】