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ETW-Elite Units of the West DLC

幸や徳川家康、上杉氏は豊臣政権に臣従。後北条氏は天正18年(1590年)からの小田原征伐により没落し、家康は関東に移封された。

慶長3年(1598年)、秀吉が死去し、豊臣政権では五大老筆頭の地位にあった家康の影響力が強まる。反徳川勢力は五奉行の石田三成を中心に結集し、慶長5年(1600年)6月、家康が会津の上杉征伐の兵を起こして大坂を離れると、三成は毛利輝元を総大将として西軍を組織し挙兵した(関ヶ原の戦い)。


犬伏の別れ

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石田三成からの書状(密書)が真田父子の元に届いた。

秀吉の遺言に背き、秀頼を見捨て出馬した家康に罪があるとして、秀吉の恩を忘れていなければ、秀頼に忠節を誓ってくれということである。

信幸は徳川四天王の一人・本多忠勝の娘(徳川家康の養女)を嫁にしていたことと、一時期徳川家に出仕していたことから、徳川家につきたいと思うのは当然である。犬伏では信幸が昌幸に対して徳川軍につくことの得を説いていたのであろう。しかし、昌幸は徳川につくことには反対であった。

三成と昌幸は姻戚関係があった。真田昌幸という武将は姻戚関係によって味方をするような武将ではない。しかし、西軍につく一つの要因になったことは間違いないであろう。

昌幸は東軍を率いる家康に従っていたが、慶長5年(1600年)7月下旬、下野で次男・真田信繁(幸村)とともに離反して上田に帰還し西軍に与した。これに対し、長男の信幸は東軍に従った。


通説では、西東軍どちらが勝利しても真田一族が残れるよう分かれたとされる。


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秀忠はこれが初陣

徳川家康率いる東軍は、下野国小山において三成ら西軍の挙兵を知って、軍を西に返した。

この時、家康の本隊や豊臣恩顧大名などの先発隊は東海道を進んだが、

徳川秀忠率いる3万8000人の軍勢は中山道を進んで西に向かった。

そしてその進路に、真田父子が立て篭もる上田城があった。

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九月二日德川秀忠進入小諸城後,他知道真田昌幸是一個心腹大患,所以希望能降服真田昌幸,故派遣真田信幸及本多忠政為使者向上田城的真田昌幸勸降,真田昌幸卻相約他們明天在上田城外的國分寺會面。翌日真田信幸及本多忠政在國分寺與真田昌幸會面,真田昌幸竟答應開城投降。

正當德川秀忠大為高興之時,真田父子卻收集糧食及加強上田城的防衛,並於九月四日突然拒絕向德川秀忠開城投降。


其實這只不過是真田昌幸將計就計而所作出的挑釁而已,目的是阻止德川秀忠的前進,果然年少的德川秀忠因此被激怒,憤而改道由小諸向上田城進攻。


小諸に到着した秀忠は、昌幸の嫡男・信幸と本多忠政(信幸の正室・小松姫の弟)に命じて、昌幸に対して無難に開城を求める。老練な昌幸はのらりくらりと返事を先延ばしにして、時間稼ぎに徹する。

数日の後、昌幸から届いた返答は「返答を延ばしていたのは篭城の準備の為でござった。充分に仕度は出来たので、一合戦つかまつろう」というものだった。あまりに大胆不敵な宣戦布告に、秀忠は「謀ったな安房守!」と怒鳴り散らし、上田城攻略を決意したとされる。

この時本多正信や徳川四天王の一人・榊原康政などは寡兵の真田氏を侮ることはせず、上田城を黙殺して西軍との主戦場(関ヶ原)に急ぐべきだと進言するが、兵力差が圧倒的だったこと、土井利勝を始めとする戦場に疎い将が多かったこと、さらに前述の第一次上田合戦で真田軍に煮え湯を飲まされた事を恨む者が多かったこともあり、秀忠の決断を覆すことは出来なかった。

九月五日德川秀忠在上田城東面約二公里的染屋村佈陣,首先以真田信幸為先鋒,攻打真田昌幸的砥石城。砥石城由真田幸村所守,他見其兄來攻,一來不忍兄弟相殘,二來想令其兄立功,故棄砥石城逃走。

真田信幸得以順利進入砥石城,而真田幸村則逃往上田城與其父匯合。東軍乘著攻陷砥石城的氣勢,九月六日德川秀忠正式攻打真田昌幸的上田城。

按《日本戰史‧關原役》所記載(括號內數字為士兵的大概數目),德川秀忠部隊有:本隊(15000)、森忠政(3810)、[木神] 原康政(3000)、本多忠政(3000)、奧平信昌(2400)、石川康長(2400)、仙石秀久(1500)、大久保忠鄰(1350)、酒井家次(900)、真田信幸(810)、日根野備中(750)、小笠原忠政(600)、菅沼忠政(600)、諏訪賴水(360)、本多正信(300)及戶田一西 (150 ),而真田父子則只有2500士兵,形勢可說是一面倒的。

これこそまさに昌幸の思う壺だった。

昌幸の目的はあくまでも時間稼ぎ。この時点ですでに戦わずして秀忠隊を3日間足止めしており、さらにあからさまな挑発を加えることによって徳川方に揺さぶりをかけた。仮に徳川勢が挑発に乗らず、上田城を素通りしたとしても、すでに3日の足止めに成功し、役目は充分に果たしている。

逆に挑発に乗って攻め来れば、城に籠もって持久戦に徹し、さらに余分な時間が稼げるわけである。家康隊との合流を急ぎたい秀忠隊の事情を考えれば長期戦が行えないことは明らかであり、兵力で圧倒されていようとも、城に籠もって数日間持ちこたえれば徳川勢は引き上げるだろう、と昌幸は踏んでいた。

短期決戦を行うしかない徳川勢の採れる戦術は自ずと限られ、その分読みやすく御しやすい。しかも総大将の秀忠はこれが初陣。

自身の役目を棚上げし、怒り任せに昌幸の挑発に乗った時点で指揮官として凡庸であると吐露したも同然。


秀忠軍は小諸から上田城の東にある染谷台に陣を移し、真田信繁の守る上田城の支城・戸石城に対し、信繁の兄である信幸の軍勢を差し向ける。迫り来る軍勢の大将が兄である事を知った信繁は兄弟で争う事を嫌い、あっさりと城を捨て上田城に引き上げた。

信幸軍は戦わずして戸石城を接収し、勝鬨を上げる。これは、信繁が、父弟が敵方に回り、東軍内での立場が危うかった信幸に手柄を上げさせ、信幸に対する秀忠の信用を高めようとしたため、また、信幸軍を戸石城に釘付けにする事により、結果的に上田城に攻め寄せるであろう兵を減殺すると同時に、信幸を上田城攻めから外させ、真田一族での同士討ちを回避しようとしたためと言われている。

事実、幸村が戦わずして戸石城を信幸に明け渡したことにより、東西両軍の真田勢も城も傷つかずに済んだ。

戸石城を落とした後、秀忠軍は早速上田城の攻略に取り掛かる。短期決戦を狙う秀忠は真田軍を城から誘き出すため、城下の田畑の稲を刈り取る苅田戦法を取り、9月8日、牧野康成率いる手勢が上田城下の稲の刈り取りを始めた。

徳川方の狙い通り、苅田を阻止しようと真田方の軍勢数百人が城から飛び出してきた。そこへ、後備えとして潜んでいた本多忠政隊が襲い掛かり、真田勢はあっさりと敗れ、上田城へと逃走。それを酒井、牧野、本多の各隊が追撃し、一気に上田城の大手門前まで迫った。

それらの流れは全て昌幸の作戦であった。徳川勢が上田城の大手門へと迫ったとき、突如として門が開き、門の向こう側で待ち構えていた真田の鉄砲隊が一斉射撃を浴びせた。さらに城内からも銃矢が降り注ぎ、徳川方の先鋒は大混乱に陥った。

功を焦った徳川勢は逃走する真田勢を遮二無二追撃していたため、大手門に到達した時は隊列・陣形共に型を成さない状態に陥っていた。このため、反撃を浴びて崩された先鋒隊が撤退しようとするも、勢いのままに前進してきた後続の軍勢と鉢合わせになり進退窮まったところへ、城内から真田勢が討て出て徳川軍を散々に打ち破った。

さらに昌幸は徳川勢に追い打ちをかけた。前日の夜に密かに上田城を出て染谷台の北東に潜んでいた信繁隊200が秀忠本陣に奇襲をかけた。

信繁隊は鉄砲を一斉に撃ちかけ、浮き足立った秀忠本陣になだれ込んだ。秀忠自身は家臣に馬を与えられ、辛うじて小諸へと逃れた。

また昌幸は神川の上流に堤防を築き、神川を密かに塞き止めており、信繁の合図で堤防が切られると、大量の水が濁流となって染谷台に押し寄せ、真田勢に追われていた神川付近の多くの徳川勢の人馬が飲み込まれる事となり、第二次上田合戦はわずか1日で真田方の大勝に終わった。

九月六日朝早,德川秀忠的部將牧野康成及酒井家次命令其部下先作出挑釁,在上田城下的稻田收割稻米,真田昌幸的偵察兵見狀以火鎗還擊,部份城兵更出城阻止其收割行為。經過一輪小接觸後,城兵佯裝不敵撤退,牧野康成部隊不虞有詐尾隨追擊。牧野康成部隊被城兵誘使進入離城東約七百米的科野大宮社一地時,突遭真田昌幸早已埋伏的伏兵包圍。牧野康成中伏被圍,幸好本多忠政及大久保忠鄰的援兵趕到,真田昌幸的伏兵向城下街道逃去。正當德川秀忠的主力部隊全力追擊那些伏兵時,在上田城北面的虛空藏山突然有一隊真田軍出現,並突擊德川秀忠的本陣。

其實這隊只不過是真田昌幸命令百姓所組成的偽軍而已,那支偽軍令德川秀忠部隊引起混亂,同時真田幸村率兵從城內殺出,攻擊德川秀忠部隊。德川秀忠部隊受真田昌幸的計謀所擺佈,弄得全軍陷入混亂狀態,始終真田昌幸兵力不多,加上其目的只是阻延德川秀忠部隊西上的進度,不久又撤退回上田城。在真田昌幸的重金利誘下,其部隊士氣高昂,所以德川秀忠日復一日始終未能攻下上田城。

このときのことを『烈祖成蹟』は「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」と記している。秀忠は上田城が予想外に頑強であることに驚き、上田城に押さえの兵を残して先を急ぐことにする。

九月八日森忠政向德川秀忠提出諫言,表示跟德川家康會合要緊,不要再在上田城浪費時間,而德川秀忠亦驚覺在上田城耽誤了不少時間,在九月九日下達停止攻擊上田城的命令,率兵回小諸。也許是德川秀忠的不幸,德川家康命令德川秀忠在岐阜集合的書信這時才送達德川秀忠手中。

這封信在八月廿九日由江戶送出,但是送信的使者在途中遇上大雨導致延誤軍情,十日後(九月九日)才送達德川秀忠手中,德川秀忠只好在九月十日由小諸匆匆率兵前往關原。最終未能趕及關原之戰,真田昌幸阻延德川秀忠部隊西上的計劃獲得成功。

九月十三日德川秀忠到達信濃的下諏訪;九月十四日到達信濃的本山;九月十五日關原之戰爆發當天德川秀忠才到達信濃的馬籠;九月十六日到達信濃的木曾福島;九月十七日到達信濃的妻籠,獲悉東軍在關原一戰獲勝。

九月十九日到達美濃的赤[土反],足足比德川家康遲了五天;

九月二十日德川秀忠終於趕上德川家康到達草津,要求在大津會見德川家康,德川家康對他的遲到十分憤怒而拒絕接見,九月二十三日德川家康才跟德川秀忠會面。

事情還未因此而完結,德川家康就德川秀忠的遲到而處分有關人仕一事上,本多正信採取一幅置身事外的態度。他向德川家康力陳德川秀忠不理會其反對之議,令[木神]原康政及大久保忠鄰無話可說,對其行為深感不滿。

德川家康最終命大久保忠鄰及牧野康成的旗奉行杉浦久勝及贄掃部切腹,牧野康成之子牧野忠成及德川秀忠的旗本太田善太夫等七人則監禁在山中的吾妻砦。

最終杉浦久勝切腹,牧野忠成及贄掃部則逃亡。

大久保忠鄰乃是本多正信的恩人大久保忠世之子,本多正信藉大久保忠世的之手才得以重回德川氏。本多正信的態度令其與大久保忠鄰的關係迅速惡化,導致後來的兩派鬥爭……


しかし、この上田での遅延だけでなく道中の悪天候も災いして、遂に9月15日の関ヶ原本戦に遅参するという大失態を犯してしまった。この失態に家康は激怒し、秀忠にしばらくは対面することすら許さなかったと言われている。

松代城にあった徳川方の森忠政がこの戦闘後も葛尾城に兵を置いて上田城を見張らせていたことから、信繁が夜討・朝駆けを敢行し小競合いが続いたとされる。

また、結果的に大敗のきっかけを作った康成・忠成父子は部下を庇って出奔したため、一時謹慎となった。

この戦いで秀忠軍は美濃で行われた関ヶ原本戦に遅参したとされるが、実際は秀忠軍の当初の任務は中山道制圧であり、本戦の遅参は転戦を命じる使者が利根川の増水で到着が遅れたことに所以する。ゆえに「昌幸が秀忠を遅参させた」というのは正確ではない。

関ヶ原の戦いが西軍の敗北に終わり、西軍に与した昌幸と信繁は戦後処理で死罪を命じられたが、信幸とその岳父である本多忠勝の助命嘆願などもあって、一命を助けられてはじめ高野山、のち信繁が妻を同行させることを願ったため九度山に流罪となった。
by cwj36 | 2009-07-01 22:40 | 山之機


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