平泉

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平泉藤原氏四代 清 基 秀 泰



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11世紀半ば、陸奥国には安倍氏、出羽国には清原氏という強力な豪族が存在していた。

安倍氏、清原氏はいずれも俘囚の流れを汲む、言わば東北地方の先住民系の豪族であった。このうち安倍氏が陸奥国の国司と争いになり、これに河内源氏の源頼義(源賴朝是其6代孫)就任陸奥守・鎮守府将軍後、が介入して足掛け12年に渡って戦われたのが「前九年の役」である。

前九年の役、「役」の表現には「文永の役」「弘安の役」(元寇)同様、華夷思想の影響が多分に見られ、安倍氏が支配した東北が畿内から異国視され、安倍氏自体も「東夷」として蛮族視されていたことを物語る。

前九年の役はその大半の期間において安倍氏が優勢に戦いを進めていたが、最終局面で清原氏を味方に付けた源頼義が安倍氏を滅ぼして終わった。

この前九年の役の前半、安倍氏の当主であったのが頼時である。頼時は天喜5年(1057年)に戦死し、その息子の安倍貞任は康平5年(1062年)に敗死したが安倍頼時の血統が絶えたわけでは無かった。

頼時の娘の1人が前述の亘理郡の豪族・経清に嫁いでいたのである。亘理経清は、藤原北家の藤原秀郷(俵藤太)の子孫とされており、

前九年の役中源頼義厨川の戦,経清もまた安倍氏の滅亡の際に頼義に囚われ斬首されたが、その妻(つまり頼時の娘)は頼義の3倍の兵力を率いて参戦した戦勝の立役者である清原武則の長男・武貞に再嫁することとなった。

この時、頼時の娘が連れていた経清の息子(頼時の外孫)も武貞の養子となり、長じて清原清衡を名乗った。

藤原清衡

永保3年(1083年)、清原氏の頭領の座を継承していた清原真衡(武貞の子)と清衡そしてその異父弟の清原家衡との間に内紛が発生する。

この内紛に源頼義の嫡男であった源義家が介入し、清原真衡の死もあって一旦は清原氏の内紛は収まることになった。

ところが義家の裁定によって清原氏の所領の6郡が清衡と家衡に3郡ずつ分割継承されると、しばらくしてこれを不服とした家衡が清衡との間に戦端をひらいてしまった。

家衡はこの裁定に不満を持ち、応徳3年(1086年)に清衡の屋敷を襲撃し、妻子眷属を皆殺しにした。難を逃れた清衡は義家に助力を求め、

義家はこの戦いに再び介入し、清衡側について家衡を討った。この一連の戦いを後三年の役と呼ぶ。

真衡、家衡の死後、清原氏の所領は清衡が継承することとなった。清原氏の私闘

清衡は実父の姓である藤原を再び名乗り、藤原清衡となった。これが奥州藤原氏の始まりである。で奥州藤原氏の祖。

清衡は、朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などの献上品や貢物を欠かさなかった。その為、朝廷は奥州藤原氏を信頼し、彼らの事実上の奥州支配を容認した。

その後、朝廷内部で源氏と平氏の間で政争が起きたために奥州にかかわっている余裕が無かったと言う事情も有ったが、それより大きいのは当時の中央政府の地方支配原理にあわせた奥州支配を進めたことと思われる。

奥州藤原氏は、中央から来る国司を拒まず受け入れ、奥州第一の有力者としてそれに協力するという姿勢を最後まで崩さなかった。

そのため奥州は朝廷における政争と無縁な地帯になり、奥州藤原氏は奥州17万騎と言われた強大な武力と政治的中立を背景に源平合戦の最中も平穏の中で独自の政権と文化を確立する事になる。


その政権の基盤は奥州で豊富に産出された砂金と北方貿易であり、北宋や沿海州などとも独自の交易を行っていた様である。

マルコ・ポーロの東方見聞録に登場する黄金の国ジパングのイメージは、奥州藤原氏(後に安東氏)による十三湊大陸貿易によってもたらされたと考える研究者もいる。

長治2年(1105年)に清衡は本拠地の平泉に最初院(後の中尊寺)を建立した。

1108年には中尊寺造営を開始して壮大な中世都市平泉の原型をつくり、奥州藤原氏四代100年の栄華の基礎を築いた。

天治元年(1124年)に清衡によって中尊寺金色堂が建立された。屋根・内部の壁・柱などすべてを金で覆い奥州藤原氏の権力と財力の象徴とも言われる。

藤原基衡

大治3年(1128年)の清衡の死後、兄である「小館」惟常ら兄弟との争乱が記録されている。

基衡は惟常の「国館」(国衙の事と思われる)を攻め、圧迫に耐えかねた惟常は小舟に乗って子供を含め二十余人を引き連れて脱出し、越後に落ち延びて基衡と対立する他の弟と反撃に出ようとするが、基衡は陸路軍兵を差し向け、逆風を受けて小舟が出発地に押し戻された所を惟常ら父子共々首を切ったという。

基衡はこの合戦に勝ち、奥州藤原氏の当主となる。

永久5年(1117年)に基衡が毛越寺(もうつうじ)を再興した。その後基衡が造営を続け、壮大な伽藍と庭園の規模は京のそれを凌いだと言われている。

毛越寺の本尊とするために薬師如来像を仏師・雲慶に発注したところあまりにも見事なため、鳥羽上皇が横取りして自分が建立した寺院の本尊に使用せんとしたほどだったという。

また、基衡は院の近臣で陸奥守として下向してきた藤原基成と親交を結び、基成の娘を秀衡に嫁がせ院へも影響を及ぼした。その後下向する国司は殆どが基成の近親者で、基成と基衡が院へ強い運動を仕掛けたことが推測される。

藤原秀衡

奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡、泰衡と4代100年に渡って繁栄を極め、平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市となった。戦乱の続く京を尻目に平泉は発展を続けた。「北方之王」。

この平泉文化は現代でも大阪商工会議所会頭による東北熊襲発言に際して、国会で東北地方の文化の象徴として引き合いにだされている。

平泉の金文化を支えたと伝えられている金鉱山は北から、八針(岩手県気仙郡)、今出山(岩手県大船渡市)、玉山(岩手県陸前高田市)、鹿折(宮城県気仙沼市)、大谷(宮城県気仙沼市)だったと言われ、平泉から東方に位置する三陸海岸沿岸に並んでいる。

そのため奥州は朝廷における政争と無縁な地帯になり、奥州藤原氏は奥州17万騎と言われた強大な武力と政治的中立を背景に源平合戦の最中も平穏の中で独自の政権と文化を確立する事になる。

1180年源平亂起,平氏和源氏都亟欲拉攏藤原秀衡成為盟友。平氏控制下的朝廷多次對秀衡的幾個兒子加官晉爵。

藤原秀衡使出兩面手法,認為源氏的力量不足以討滅平氏,以源氏為盾牽制平氏,撈取與朝廷(平氏)討價還價的政治資本並,暗中資助源義經南下投兄,借此向源賴朝釋出善意,間接鼓勵賴朝出兵西進。

保持兩方都不幫的中立立場,鞏固其在東北地區的獨立霸權為首要考量。

但是源賴朝仍然為了防備藤原秀衡南下,親帥主力坐鎮鐮倉,沒有親征平氏,導致賴朝錯失了所有討伐平氏的戰功,這也成為日後賴朝與義經反目的一個間接但是根本的原因。

で元暦元年(1184年)6月、平家によって焼き討ちにあった東大寺の再建に奉じる鍍金料金を、頼朝の千両に対して秀衡はその五倍の五千両を納め、京都の諸勢力との関係維持に努めている。

しかし平氏滅亡後の文治2年(1186年)、平氏を滅ぼして勢力を拡大してきた鎌倉の頼朝は「陸奥から都に貢上する馬と金は自分が仲介しよう」との書状を秀衡に送り牽制をかけてくる。

源氏の仲介など無しに、直接京都と交渉してきた藤原氏にとっては無礼な申し出であり、秀衡を頼朝の下位に位置づけるものであった。

秀衡は直ちに鎌倉と衝突する事は避け、馬と金を鎌倉へ届けた(『吾妻鏡』4月24日条)。

頼朝の言い分を忠実に実行する一方で、もはや鎌倉との衝突を避けられないと考えた秀衡は


文治3年(1187年)2月10日、頼朝と対立して追われた義経を、頼朝との関係が悪化する事を覚悟で受け容れる。

国衡・泰衡・義経の三人に起請文を書かせた。義経を主君として給仕し、三人一味の結束をもって、頼朝の攻撃に備えよ、と遺言して没した

秀衡は平治の乱で敗れた源義朝の子・源義経を匿い文治元年(1185年)、源頼朝に追われた義経は秀衡に再び匿われた。

1187年10月29日,「北方之王」藤原秀衡在平泉中尊寺与世长辞,享年66岁。

藤原泰衡

清衡は陸奥押領使に、基衡は奥六郡押領使、出羽押領使に、秀衡は鎮守府将軍に、泰衡は出羽、陸奥押領使であり押領使を世襲することで軍事指揮権を公的に行使することが認められ、それが奥州藤原氏の支配原理となっていた。

秀衡は頼朝からの引渡要求を拒んできたが秀衡の死後、息子の藤原泰衡は頼朝の要求を拒みきれず文治5年(1189年)閏4月義経を自殺に追い込み、義経の首を頼朝に引き渡す事で頼朝との和平を模索した。

ついに屈した泰衡は閏4月30日、従兵数百騎で義経の起居していた衣川館を襲撃し、義経とその妻子を自害へと追いやった。

同年6月、弟の忠衡を義経に同意したとして藤原泰衡襲擊藤原忠衡居館,殺了藤原忠衡。

泰衡は義経の首を差し出す事で平泉の平和を図ったが、泰衡は、義経の首を酒浸けにして鎌倉へ送達したが、

7月19日、鎌倉は頼朝自ら出陣し、大軍を持って奥州追討に向かった。

しかし、関東の後背に独自の政権があることを恐れた源頼朝は同年7月、義経を長らくかくまっていた事を罪として奥州に出兵。

泰衡は鎌倉軍を迎え撃つべく総帥として国分原鞭楯(現在の仙台市青葉区国分町周辺)を本営としていたが、

8月11日、阿津賀志山の戦いで総大将の国衡が敗れると、にかけての阿津賀志山の戦いの詳細は次の通りである。8月7日、陸奥国(後の岩代国)伊達郡国見へ至り、藤原国衡と対峙する。国衡は阿津賀志山に城壁を築き、阿武隈川の水を引き入れた堀を設け、二万の兵を率いていた。

夜に入り頼朝は明朝の攻撃を命じ、まず予め用意していた鋤鍬で掘を埋めさせる。8日、畠山重忠、小山朝光、加藤景廉、工藤行光らに、阿津賀志山の前に陣する数千騎を攻めさせ破る

国衡の奥州軍は大敗し、泰衡は平泉方面へ退却した。

平泉を放棄して中心機関であった平泉館や高屋、宝蔵になどに火を放ち北方へ逃れた。

8月21日、平泉は炎上し、華麗な邸宅群も百万の富も灰燼に帰した。平泉軍はわずか三日程度の戦いで敗走し、以降目立った抗戦もなく、奥州藤原氏三代の栄華はあっけなく幕を閉じた。

22日夕刻に頼朝が平泉へ入ると、主が消えた家は煙となり、人影もない焼け跡に秋風が吹き抜ける寂寞とした風景が広がっていたという。唯一焼け残った倉庫には莫大な財宝・舶来品が積み上げられており、頼朝主従の目を奪っている。

8月26日、頼朝の宿所に泰衡からの書状が投げ込まれた。『吾妻鏡』によると、以下のように書かれていたという。

「義経の事は、父秀衡が保護したものであり、自分はまったくあずかり知らない事です。父が亡くなった後、貴命を受けて(義経を)討ち取りました。これは勲功と言うべきではないでしょうか。しかるに今、罪も無くたちまち征伐されるのは何故でしょうか。その為に累代の在所を去って山林を彷徨い、大変難儀しています。両国(陸奥・出羽)を(頼朝が)沙汰される今は、自分を許してもらい御家人に加えてほしい。さもなくば死罪を免じて遠流にして頂きたい。もし御慈悲によってご返答あれば、比内郡の辺に置いてください。その是非によって、帰還して参じたいと思います。」

頼朝は泰衡の助命嘆願を受け容れず、その首を取るよう捜索を命じた。


泰衡は夷荻島へ逃れるべく北方へ向かい、北海道への渡航も企てたが

数代の郎党であった河田次郎を頼りその本拠である比内郡贄柵に逃れたが、9月3日、その河田次郎に裏切られて殺害された。享年25

6日、河田次郎は泰衡の首を頼朝に届けたが、頼朝は「譜第の恩」を忘れた行為は八虐の罪に当たるとして河田次郎を斬罪した。

贄柵(秋田県大館市)において家臣の造反により藤原泰衡は殺され、奥州藤原氏は滅んだ。同月12日、頼朝は厨川に到達して、泰衡の首級を晒し、祖先の源頼義が安倍氏へ下した処分の故事を再現した。

平家滅亡により源氏の勢力が強くなった事、奥州に深く関わっていた義経が頼朝と対立した事などにより中立を維持できなくなった事が滅亡の原因となった。
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by cwj36 | 2006-12-14 17:31 | 【日本平安鎌倉時代 】


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