RES GESTAE 模組-希律希底軍

1532
1534

1538年


天文元年(1532年)、今川氏豊の居城とされる那古野城(名古屋市中区、のちの名古屋城)を奪い、ここに居城を移して愛知郡(現在の名古屋市域周辺)に勢力を拡大した(ただし那古野城奪取については天文7年(1538年)説もある)。



織田信長天文3年5月12日(1534年6月23日




e0040579_1621307.gif永正年間(1504年~1520年)頃、清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」当主の織田信定(その父織田良信ともいう 信定は岩倉城主織田敏信の弟で)が、尾張国の海西郡を手中に治めた際、大中臣安長の屋敷跡に勝幡城を築城したといわれる。

勝幡城の規模は東西205m、南北216m、二重の濠を備えた城であったようです。勝幡城は室町時代の形式の館であったとされます。

この地は元々「塩畑(しおばた)」と呼ばれていたが、縁起が悪いという理由で信定または織田信秀が「勝ち旗」の意で「勝幡」と改名したといわれる。

城のすぐそばを流れる日光川、三宅川、領内川などの水運を利用できました。織田家が勢力を伸ばすことが出来たのは、経済力の豊かな津島の商人を抑えていたからだとされています


e0040579_1612337.jpg永正12年(1515年)、今川氏親は遠江国で尾張守護の斯波義達と戦い勝利し、斯波氏の威は衰えた。大永年間(1521年 - 1528年)に氏親は今川氏の一族である今川那古野氏の領地だった尾張国那古野の地に城を築き(那古野城、後の名古屋城)、末子の氏豊を今川那古野氏の養子として入れ城主とした。

氏豊は斯波義達の娘を娶り斯波氏と姻戚の関係になった。那古野氏は明徳 - 応永年間に今川仲秋が尾張守護となったときに尾張国に代官として封じられた今川氏の一族(仲秋の庶子とも)で、氏豊はその家の養子となったとされている

斯波義統の妹婿

那古野城説の根拠は一つの伝説によるものです。天文元年(1532年)当時、那古野城の城
主は駿河の守護、今川氏親の子供の氏豊でした。

応仁の乱で尾張の守護、斯波氏や守護代の織田氏は二つに分裂し力は弱体化、駿河の今川氏が愛知群に深く入り込んでいました。


 今川氏豊は大の連歌好きである事を聞きつけた織田信秀は連歌を学び、那古野城で催される連歌会に度々出席しました。あるとき、氏豊は信秀に「勝幡城から那古野城までの往来は大 変であろう。」と那古野城内に小さな屋敷を構える事を許されました。


享禄5年(1532年)、勝幡城主織田信秀の奇計によって兵を城に侵入され、城を落とされた。『名古屋合戦記』によると、氏豊が連歌を非常に好み、そのことに目をつけた信秀が那古野城に催される連歌会に足繁く通い何日も逗留するようになり、氏豊に信用されるようになった。信秀が城の本丸に窓を開けるが、氏豊は夏風を楽しむ風流のためだろうと信頼しきっていた。ある日、信秀は城内で倒れ「家臣に遺言をしたい」と頼み、同情した氏豊はこれを許し、信秀の家臣が城内に入った。その夜、信秀はにわかに城内に引き入れた手勢を使って城に火を放ち、城の内外から攻め寄せて城を乗っ取ってしまった。氏豊は命乞いをして助けられ、女方の縁を頼って京に逃れた。

信秀はその屋敷に兵を忍ばせ、城の内と外から攻撃して氏豊を那古野城から追い出し、城を手に入れました。

 しかし信秀が那古野城を奪った年には諸説あり、実のところよくわかっていません。この頃の尾張には資料があまり無いからです。

天文2年(1533年)、尾張国に下向した山科言継と飛鳥井雅綱が勝幡城で織田信秀ら織田家家中に蹴鞠の指導をした際に今川竹王丸(氏豊)も招かれていたと『言継卿記』に記されていることから[1]、那古野城の奪取の時期については天文7年(1538年)年説もある

 一方勝幡城説ですが、この勝幡城は1504年に信長の祖父、織田信定によって築かれました。以来信長の家である織田弾正忠家の本拠地として、那古野城に移るまで存続しました。そして信秀が那古野城に移ると廃城になったと言われています。しかし信秀がいつ那古野城を手に入れたか判らないのでそれまでの本拠地である勝幡城で生まれた、ということになります。



 那古野城と勝幡城は約12キロほど離れています。その間には川が多く、二つの城の間の行
き来は非常に不便だったと思われます。このことから商業地の津島を支配下に置いた「織田弾正忠家」の経済力が窺える。

『尾州古城志』によると、天文3年(1534年)に信秀の嫡子・織田信長は、この勝幡城で産まれたと記されている(那古野城という説もある)。)。


弘治元年(1555年)、信長は主家の大和守家を滅ぼして清洲城を奪取すると、拠点を那古野城から清洲城へと移し、城代の武藤掃部を尾張野府城へと移した。それにより次第に衰退して、やがて勝幡城は廃城となった。


那古野城を奪われた後、駿河に帰らず京に逃れた理由は不明で、今川家の家督争いの花倉の乱にも関与していない。


そのため氏親の子ではなかったのではないかという説もある。また、弘治3年(1557年)3月、山科言継は駿府から京へ帰る途中、駿河国藤枝で「今川那古屋殿」に病気見舞いの使者を遣わしている(『言継卿記』)が、この「今川那古屋殿」を氏豊とみれば、那古野城を追われた後、一時京に逃れたかもしれないが、最終的には義元の許に迎えられたと考えられる。義元の尾張侵攻の目的の一つとして、氏豊の旧領地回復及び那古野城の奪還をあげる考え方がある(参考文献参照)。
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by cwj36 | 2006-03-16 19:48 | 資源回收


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