高城・根白坂の戦い

(施工中)

成為太政大臣,朝廷賜姓豊臣的秀吉,於天正十五年(1587年)3月,率領20萬(可能只有12萬)大軍、開始「九州征伐」出陣。

高城・根白坂の戦い

e0040579_1138773.jpg當年的秀吉的頭銜-筑前守其實只是秀吉請織田信長向朝廷討來「自封」的,直到1587年他親率大軍才真的初次踏上了九州筑前國的土地往肥後(熊本県)朝薩摩前進。

・另外、由進軍日向国方面成立別働隊,總大將是豊臣秀長率領,由豊後・日向(宮崎県)から大隅(鹿児島県東部)へ入る事にします。

これに対して島津義久は圧倒的に兵力差があり過ぎることから戦線の縮小を図った。

戸次川の戦い後に義久の弟・島津家久が占領していた豊後府内城から家久は後方の松尾城に撤退し、代わって島津家久の兄・島津義弘が府内城に入って守備を固めたのである。

しかし豊臣秀長率いる豊臣軍によって府内城が攻められるや、圧倒的な兵力・物量の差を悟った島津義弘は3月15日の夜半に風雨にまぎれて海路で府内城を脱出し、弟の家久が守る松尾城に退却した。

「哇哩咧,跟秀吉大部隊開戰是不利的」(「さすがに、この大部隊とまともに戦ってはマズイ!」)為前提とりあえず九州北部を放棄した島津は、日向&薩摩を徹底的に守る作戦に出ます。

その最前線で食い止める防波堤の役割を荷ったのが、日向高城(たかじょう)城主・山田有信です。

そう、ここは、かつて、耳川の戦いの舞台となった場所・・・その時、有信は、わずかの城兵で、宗麟の大軍勢から、この高城を守り抜き、駆けつけた島津勢は、秘策・釣り野伏(のぶせ)で、大友勢に多大な損害を与えて大勝したのでした。

しかも、豊臣勢は、高城を取り囲むように、51箇所にも及ぶ付城(攻撃用の仮の城)を構築し、すでに完全な包囲網を築きあげていたのです。

4月,豐臣軍在島津軍日向南部的「高城」附近集聚兵力,等待豐臣秀長的軍勢到達。這個高城,就是之前「耳川の合戦」島津軍擊破大友家大軍的難攻不落之城。於是島津軍想在此集聚3萬5千兵力,再次抵抗南下的大軍。

擁有8萬以上大軍的豐臣秀長軍勢到達,包圍高城,上次在耳川の合戦守高城的島津家山田有信ら1500余人が籠る高城を囲んだ。並且在周圍構築陣地和城寨,擺出持久戰態勢。



因為九州西側豐臣秀吉的軍勢也正在南下。如果在這個地方就這樣持續互相對峙的話,西側前進的豐臣秀吉軍勢,將會攻進島津家的據點地,薩摩。高城雖說是難以攻陷,但若被大軍包圍,陷落只是遲早的問題。

奪回根白坂夜襲

天正15年4月17日(1587年5月24日)

...終於無法再等待的島津軍,急襲救援被包圍了的高城,在「根白坂」此處,進攻豐臣軍構築了的城寨!

島津忠隣(島津歲久的婿養子)提出以夜襲奪回根白坂的作戰提案。

因為明白這一攻擊是無謀魯莽的舉動,大將島津家久猛烈反對,不過,當時是即使不發動攻擊,也不能就這樣對峙下去的形勢,島津家沒有任何其他可供選擇的方案。

根白坂因為是島津軍救援高城必須會通過的地方,豐臣軍的武將宮部繼潤早已做好堅固守備,等待著敵人。如此一來...高城南方的根白坂,展開了激烈的戰鬥!

それを予測していた宮部継潤軍の反撃により忠隣率いる島津側は忠隣始めほぼ全員が戦死するという大敗を喫することになる。

夜襲失敗後,島津義弘和島津家久等,島津軍的屢次征戰的猛者也立於前線,以2萬軍勢急襲根白坂的城寨!

島津軍では大将の島津義弘が自ら前線に立って戦ったとまで伝えられるほど奮戦した

宮部繼潤

宮部繼潤的1萬軍勢,築有柵欄和戰壕,堅固城寨周圍的防守,面對這些防禦攻勢,襲擊過來的島津軍,不斷的受到火槍射擊而倒下。豐臣軍的火槍性能良好,連射性能也高,使得正面攻擊柵欄,打算突破的島津軍,不斷地成為了火槍的餌食。

軍監尾藤知宣的消極

ここに秀長の本隊が救援にきたが、状況を見た軍監の尾藤知宣は救援は不可能、島津の軍に当たるべからずと秀長に進言し、秀長は救援の中止を受け入れた。

藤堂高虎的積極

しかし、秀長麾下的藤堂高虎が500名と宇喜多秀家麾下の戸川達安の手勢で継潤の救援に向かい、島津軍を翻弄。

藤堂高虎的部隊雖少,但卻以巧妙的指揮翻弄島津軍。

此時,豐臣軍的小早川隆景黑田官兵衛的軍勢,也開始攻擊,變成這樣的話,原本兵力相差就很大的島津軍,已經沒有得勝希望。

ここに小早川・黒田勢が挟撃をしかけたため、島津軍は大きな損害を出して敗走した。(尾藤はこの時の消極的な姿勢を秀吉に責められ、追放。後に処刑された)

蒙受了很大損害的島津軍,就這樣敗走,並且於4月中旬,高城也因受到總攻擊而陷落。島津家的最重要據點,終於落入豐臣軍手中。

降伏

さらに豊臣秀次は都於郡城を攻略し三ツ山と野尻の境界にある岩牟礼城まで侵攻した。義弘は飯野城に籠り徹底抗戦を装った。

その後、上方での封土を条件に、島津義久・歳久・義弘ら他の兄弟が降伏する前に4兄弟の中では最も早く秀長軍と単独講和したが、天正15年(1587年)6月5日、佐土原城で急死する。

豊臣側による毒殺や島津側による毒殺、病死など様々な説があるが定かではない。

家督島津義久前往泰平寺降伏。

一個月後的1587年5月,在豐臣家的大軍前,是島津家的根據地‧薩摩。終於島津義久決定投降。他將頭髮剃光,改名龍伯,家督交由島津義弘繼承。

親自向豐臣秀吉謝罪。豐臣秀吉以絢爛豪華的宴會迎接義久,在盛大的接待之後,接受投降,島津忠長成為秀吉に降伏後は人質として上洛。

同時保證島津家保有薩摩與大隅(現在的鹿兒島縣)的領土。
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by cwj36 | 2010-07-06 11:16 | 【Total War 島津 】


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